完璧な人間なんて本当はいないって思う
マツコ・デラックスの名言
「もうね、男とか女とかの区別はどうでもいいのよ。人間だもの。」 [/st-kaiwa1]
とても心に響く名言です。
毎日、毎時、悩んでいることがあるとすれば、それはヒトに対してが多いと思う。
もちろん病気やケガなどもあるでしょう。
でも、究極論その病気やケガが自分以外にもたらす影響を悩んでいたりもします。
おそらく自分の『死』への恐怖以外は、ヒトについて考えているように思います。
そのヒト。
細分化すれば、人種や宗教、性別に生い立ちなど、それはそれは細かく分類できます。
1軒隣の○○さん、その隣の○○さんとか、家の場所でも。
ですが、先にマツコ・デラックスさんが言うように、大きく括ってしまうと人間なんですよね。
Homo sapiens(ホモ・サピエンス)という種類しかない。
そんな中で、他人と比べて自分を卑下したり自信を失ったり。
逆に見下したり、他人の不幸で自分の幸せを測ったり。
イマヌエル・カントの名言
「道徳は目的を達成する手段ではなく、目的そのものでなければならない。」 [/st-kaiwa1]
ドイツの哲学者のカントは、道徳的生き方とは「何かのため」に善い行いをするのではなく、無条件に善をなすことだと、『定言命法』を説いた。
善いことをして『誉められたい』『見返りを求めたい』と思い、善いことをするのは自分のためであって道徳ではないと。
今スキャンダルになってるベッカムさんが、まさしくその例。
ユニセフへ多額の寄付で、騎士号(社会的評価)を得ようとしていたってヤツですね。
自分のために行った『善』なので、評価されないと評価したヒトに対しての怒りに変わる。
「ありがとう」というのが当然と思い、老人の荷物を持ってあげた。
別れ際に例も言わず老人が立ち去った時、その老人に対して怒りが出ればそれは「荷物を持った自分に酔いしれる」行動。
カントの説く道徳的生き方であれば、『荷物を持つことが目的』であり、礼を言われようが関係ない。
実際は、自分の存在を確かめるようにヒトは見返りを求めた『善』を行ってしまう。
「それがどうした?善いことをしているので、良いじゃないか」とい意見ももちろんある。
アルフレッド・アドラー曰く
「他者の評価を気にしている」という心理、もっというと「他者から認められたい」という承認欲求が不自由な生き方を生む [/st-kaiwa1]嫌われる勇気で脚光を浴びたアドラー心理学。
アドラーも、他者からの評価を求めることが『不自由な生き方』になってしまうと説いている。
300年以上前から、自分で自分の評価をした方が幸せだよ。と、カントもアドラーも言っている。
これは、生きるヒントになると思う。
同じヒトなら、自分で評価するか
管理人はアイデンティティ確立失敗者だから、余計にそう思うのかもしれない。
マツコさんも、計り知れないご苦労をされたからこそ言葉に重みがあるんだと感じる。
誰もかれも、みんなヒト。
自分と同じヒトに承認されたいとか、評価されたいとか、そういうのに縛られるのは止めようと心がけるとする。
実際に管理人は、ヒトに見つめられたいと強く思ってしまうタイプ。
だけど、みんなヒトなんだから自分で自分を承認しよう。
自分が承認を求めているヒトも、決して完璧なヒトではないんだから。
それなら自分で自分を評価して、生き難くさを減らす思想をしてみようと思う。